明日を元気に生きるための「心の処方箋」

頑張り過ぎて疲れたあなた、心を痛めたあなたへ。言葉の癒しを実感して下さい

「プーチン」という「アルマゲドン」の恐怖

 ロシアのウクライナ侵攻から8ヶ月が過ぎ、当初、軍事力の面で圧倒的に有利と見られていたロシア軍は、米国やNATOからの支援を受け勢いの増すウクライナ軍を前に、占領地域からの敗退を余儀なくされました。今や戦況はウクライナ軍の優勢に転じました。

 思わぬ”苦戦”にロシア軍幹部から不満は噴出し、国民からの支持も失われつつあります。そもそもこの戦争に勝ち目はなかったのではないでしょうか。一方的な軍事進攻に対して、大義名分が立つはずもなく、国際社会から一斉に非難されることは最初から分かっていたのではないか。それでも、あえて戦争を始めたプーチン大統領の狙いとは一体、何なのでしょうか。

 

 

プーチンの「狙い」

 

 

 負け戦と知りながら無謀にも兵を挙げたプーチンの真の「狙い」とは何か。それこそがついにバイデン米大統領が発言した「アルマゲドン」だったのではないか。

 アルマゲドン(ハルマゲドン)とは、最終戦争のこと。文字通り「世界の終わり」即ち終末を意味します。独裁者プーチンは経済力、軍事力の両面で米国の上をいく中国の”世界支配”が確実視される中、米中戦争が勃発するより先にロシアが第三次世界大戦を引き起こして、その頂点に自ら君臨したいという、まさしく狂気に陥ったのです。

 

 

 誰もが悲観論を好むわけではありません。が、米中の軋轢が決定的となった今、中国が台湾を軍事力で一方的に支配下に置くといういわゆる「台湾有事」はもはや不可避という他ありません。台湾有事の際には日本は確実に戦禍に巻き込まれます。中国軍が尖閣諸島から沖縄、そして本土へと侵攻する時に、米国は中国に向けて宣戦布告せざるを得くなる。これは単なる悲観論などではなく、目前に迫る危機なのです。

 

 

 台湾有事から日中戦争へ、そこに米国が参戦して送る第三次世界大戦の危機が日増しに高まる中、好むと好まざるとにかかわらず、私たち日本人は「泰平の眠り」から無理やりたたき起こされ、戦争の当事者とならざるを得ません。米中戦争にあっては日本の領土はロシア軍に蹂躙されたウクライナのようになるかもしれません。平和国家・ニッポンは一夜にして戦場と化してしまうのです。

 

 

 中国対米国という二大勢力を尻目に、独裁者プーチンは自らの政治生命を、否、魂を悪魔に売って、我こそがこの地球の征服者であるという高揚感に浸りたいがために、自らが先陣を切って世界戦争に打って出るという、とてつもない暴挙に及んだ。これがロシアのウクライナ侵攻の本質ではないでしょうか。

 

 

 自らを世界の覇者たるうるためには手段を選ばずという、プーチンの狂気が行きつく先は、世界終末戦争に他なりません。プーチンには、ロシア軍の敗退は織り込み済みだったのかもしれない。それを承知の上で、核戦争を仕掛けるという「アルマゲドン」狂騒曲の指揮を執りたいのではないか。

 

 

アルマゲドン」の恐怖

 

 

 スタンリー・キューブリック監督の『博士の異常の愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』という長いタイトルの映画は、ブラックユーモアに満ちた内容ですが、戦争前夜の様相を呈した今、ユーモアどころか現実に起こり得る出来事を予知したかのように見えます。

 ごく大雑把に内容を紹介しますと、一人の破滅願望に取りつかれた米国軍の司令官がソ連に核攻撃を仕掛け、そのことを察知した米大統領ソ連の最高指導者とが攻撃を何とか阻止しようとしたものの、結局、核弾頭を搭載した一機の戦闘機が爆弾を投下してしまうというもの。

 

 

 たった一人の狂気に陥った人間が人類を滅亡させてしまうという内容に身の毛のよだつ思いがします。何故ならば、プーチン大統領その人をあの映画の狂った司令官にそのまま置き換えることが出来るからです。

 米ソ冷戦時代のように、経済力、軍事力共に米国に対抗できるまでに成長した中国がかつてのソ連に取って代わる中、プーチンは中国にこれ以上の後れを取るものかと焦るあまり、核戦争という禁じ手についに手を掛けてしまったのです。

 

 

 核攻撃のスイッチを押すことの出来る人物は限られますが、プーチン大統領には間違いなくそれが可能です。今や世界は狂気に憑りつかれた一人の国家指導者の手に委ねられた。映画『博士の異常な愛情』の世界観が現実のものとなる可能性が高いのです。

 さらに世界を見回せば、プーチンのような何をしでかすか予測不能の国家指導者は他にもいることに気付かされます。中国の習近平しかり、北朝鮮金正恩しかり。まだまだほかにもいます。世界は狂気で満ち溢れているではありませんか。

 

 

 アダムとイブが幸せに暮らしていたある日、ヘビにそそのかされてアダムが禁断の木の実を口にして、ユートピアから追放されてしまう。旧約聖書に記されている物語ですが、ヘビのような”そそのかし屋”は実は私たちの心の中に存在しているのです。それは強欲だったり妄想だったり、時に姿かたちを変えては絶えず悪魔の囁きを繰り返すのです。

 

 

 世界征服したいという妄想を日々、プーチンの脳内で囁き続けているのかもしれません。私たちはプーチンというアルマゲドンの脅威に晒されています。全面核戦争が勃発して世界が終わらないように、プーチンがこれ以上そそのかせないように、祈ることしか出来ないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「オリビア・ニュートン=ジョン」国葬と「安倍元総理」国葬の違いとは

 天使の歌声を持つ豪州出身のオリビア・ニュートン=ジョンさんの訃報が世界中を駆け巡りました。金髪のロングヘアーという典型的な美人歌手として瞬く間に大人気を博したのはご承知の通り。ソロ歌手として初めて日本公演を行った際には、一大旋風を巻き起こしました。

 オリビアさんの行く先々には常にカメラマンが列をなしてフラッシュが絶えず焚かれ、これにはさすがのサービス精神の旺盛な彼女も耐えきれずに、両手で顔を覆い隠す仕草さえ見られました。彼女の美貌ばかりが取り沙汰され、歌手としての実力は二の次というのが当時の見方でした。まさしく西洋の「アイドル」歌手だったのです。

 

 

「アイドル」からエンタメスターへ

 

 

 初期の頃の代表曲『そよ風の誘惑』は透明感のあるハイトーンを強調した曲調と親しみやすいメロディで大ヒットしました。ジョン・デンバーの『カントリー・ロード』や『レット・ミー・ビー・ゼア』などカントリー調の曲が続いたため、カントリーシンガーと呼ばれることもありました。

 

 

 ある雑誌のインタビューで、自分は決してカントリー歌手ではなく、様々な曲を歌っていると語りました。確かに『その風の誘惑』の収録されたアルバムでは、ロックバンド・ホリーズの『安らぎの世界へ』を取り上げています。メジャーデビューを果たした『イフ・ノット・フォー・ユー』からして後にノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの作なのですから、オリビアは単なる”アイドル”歌手などではありません。彼女のあの美貌ばかりに目が行ってしまうのでした。

 

 

 彼女のステージングはなかなか見事なものでした。ふわりとした白い衣装に身を包み、金髪をなびかせながら時にシャウトし、時にアンニュイなニュアンスを表現し、ファンを魅了してやみません。クライマックスで歌う、シンガーソングライターのピーター・アレン作の『愛の告白』(I Honestly Love You)では、日本語で"アイ(シ)テマス”と囁くのです。たとえ彼女の日本語が間違って「シ」を抜かして「アイテマス」とやっても、ファンならばそんなことはまったく気にせずに、ただただ夢心地になるばかりでした。

 

 

 50代以降の男性諸氏ならば当時のオリビア人気の凄まじさを覚えているはずです。その年代に人々にとっては紛れもなく彼女は「アイドル」でした。ところが、その後の彼女の活躍ぶりには、かつての「カントリーシンガー」「アイドル歌手」といったレッテルなどまったく当てはまりません。特にヒットミュージカルを映画化した『グリース』でジョン・トラボルタとダブル主演を果たしてからは、歌もダンスもこなせる一流のエンターテイナーに成長していったのです。

 映画『ザナドゥ』では、伝説のミュージカルスター、ジーン・ケリーと共演。スケート靴をはいて踊り歌う姿は大物スターにも負けず劣らずの迫力でした。

 

 

 トレードマークの美しいブロンドヘアをばっさりと切り落とし、スポーティでセクシーな衣装に身を包み歌う『フィジカル』で、オリビアはカワイ子ちゃん路線から思い切ったイメージチェンジを図りました。『ア・リトル・モア・ラブ』はハードなロック調の曲。カントリーシンガーからポップスの歌姫、ミュージカル女優、ロックシンガー。彼女は七変化どころか、その活躍の場はショービズの世界だけに留まりません。

 

 

 40代に入った頃に乳がんを患い、しばらく表舞台から退かざるを得なくなりました。すると今度は自らがモデルとなって癌の早期発見、治療の重要性を訴える活動に乗り出し、「オリビア・ニュートン=ジョン」財団まで創設したのです。

 そうした啓蒙活動が認められ、オーストラリア勲章、大英帝国勲章、そして日本の旭日小授賞が授与されました。もちろん、音楽活動では米国のグラミー賞を4度も受賞しています。歌手として一流であるばかりか、慈善活動にも大いに力を注いだのです。

 

 

 歌手からスタートして次々とキャリアアップしていったオリビアですが、あの美貌と誰からも愛されるキャラクターは終生変わることはありませんでした。彼女の突然の訃報に世界中から哀悼のメッセージが寄せられたのです。

 

 

「そよ風の誘惑」には敵わぬとも

 

 

 オーストラリアのアンドリュース首相は国葬を執り行うことを表明しました。国葬とは言うまでもなくオリビアさんを国賓としてその葬儀を行うことを意味します。

 愛くるしい笑顔と美しい歌声で世界中の人々を魅了してやまなかったオリビアさん。享年73歳というのはあまりにも早すぎます。ファンならずとも誰もが同じ思いのはずです。

 

 

 日本の憲政史上、最も在任期間が長い安倍晋三元総理が銃弾テロで命を奪われましたが、岸田首相は早い段階で安倍氏の葬儀を国葬とする旨を発表しました。その痛ましい突然の死に際しては、世界中の要人から悲しみの声が寄せられました。政治家にとって選挙活動というのは一種の”戦場”でもあり、選挙戦の最中で凶弾に倒れた安倍氏はまさしく「戦死」と言うべきでしょう。

 

 

 安倍氏へのテロ攻撃は「言論に対する挑戦だ」などと大手マスコミはこぞって書き立てました。が、その舌の根も乾かぬうちから「国葬」に対しては疑問を呈する意見が大勢を占めたのです。豪州政府はオリビア国葬を決めたのに、日本の言論界は安倍氏国葬には概ね反対の模様です。そうした論調が影響したのか、世論調査の結果も反対意見が賛成を大きく上回りました。

 

 

 オリビアさんの国葬と一国の総理大臣の職にあった人物の国葬では、どうしてこれほどの違いがあるのでしょうか。その答えは、ずばり「皆に愛されていたか、否か」です。政治家に毀誉褒貶は付きものですが、安倍元総理は果たしてそれほどの「嫌われ者」だったのでしょうか。民主主義への挑戦であり、絶対に許されない蛮行に命を奪われたというのに。

 もちろん、オリビア・ニュートン=ジョンさんの「愛くるしさ」には敵わないでしょうけれども。

 

 

 

 

 

 

 

「安倍元総理」銃撃テロを誘発させたのは何か?

 選挙戦の応援演説中にテロリストの凶弾に倒れた安倍晋三元総理。41歳の元自衛隊員・山上徹也が元総理の背後から近づき、手製の銃器を構え発砲する様子を複数のカメラが捉えました。白昼堂々と繰り広げられた惨劇に言葉もありません。安倍晋三元総理の命を奪った銃撃テロ。世界有数の安全で平和な国家・ニッポンのイメージはこの瞬間、完全に崩れ去ったのです。

 

 

駆け巡る「衝撃」

 

 

 悪夢であれば覚めてほしい。そんな思いも虚しく、犯人が放った銃弾は胸部深くに達し、救命措置も虚しくその日の夕方5時3分に死亡が確認されたのです。治療先の県立病院に昭恵夫人が到着して間もなく安倍元総理はこの世を去りました。一度も意識は戻らず、愛する夫人との別れの言葉を交わすことさえ叶わずに。

 

 

 憲政史上、最長の首相在任期間という記録を有するi安倍元総理ですが、今更ながらにその間の功績の数々には目を瞠るばかりです。特に地球を俯瞰するかのような外交面での活躍ぶりは他に例を見ません。ロシアのプーチン大統領、中国の習近平主席、ヨーロッパ諸国のリーダーたちと友好関係を築き上げた安倍氏の外交手腕は、誰もが認めるところです。凶弾に倒れた後の安倍氏に対する世界各国の反応がそのことを如実に物語っています。

 

 

 安倍氏と親交のあった各国のリーダーたちは突然の訃報に悲嘆にくれると共に安倍氏のこれまでの業績に対して惜しみない賞賛を送りました。ウクライナ侵攻以来、敵対関係にあるロシアのプーチン大統領尖閣への領海侵犯を繰り返す中国の習近平氏でさえも、安倍氏の突然の死を悼みました。これほどまでに”世界中”から愛される日本の政治家があったでしょうか。

 

 

 参院選挙の最中に銃撃テロを起こした山上徹也には、容疑者などという生温い言葉は使いたくありません。犯人もしくはテロリストと呼ぶべきです。民主主義を根底から揺るがしかねない凶行は絶対に許すことはできない。岸田首相が会見で目に涙を溜めて絞り出すようにそう語りました。もし今回の事件を検証し、凶行を未然に防ぐことが出来なかった原因を明確にしなければ、また同様の政治テロが繰り返されることでしょう。

 犯人が背後から銃を発砲した、あの瞬間から日本はテロ国家へと変貌したのです。日本の安全神話は脆くも崩れ去り、米国のように銃による犯罪が頻発する日も近いことでしょう。二度と治安の良い安全な社会には戻れないかもしれません。

 

 

 あの時、手製の銃から大口径の銃弾を発砲させたのは、”特定の宗教団体”に恨みを持つ一人の元自衛隊員だけでしょうか。むろん、事件現場で元首相に銃弾を浴びせたのは犯人である山上徹也に他なりませんが、問題はテロの標的に安倍元総理が選ばれた理由でありその背景にあります。

 

 

「バッシング」の果てに

 

 

 安倍晋三氏は前述のように、首相の在任期間が長く、世界各国のリーダーの中心に立つほどの大物政治家であるが故に、攻撃対象にされやすかったのかもしれません、でもそれだけの理由でしょうか。犯人は安倍氏に対して政治的信条や個人的な恨みはないと話しているそうですが、何ら恨みを抱いていない相手を標的にする必然性があるとは考えにくい。凶行の一部始終を映し出した映像を見る限り、強い殺意を以て犯行に及んだに違いありません。確実に安倍氏の命を奪うための行動でした。

 

 

 なぜテロの標的が安倍元総理なのか。特定の宗教団体の幹部ではなく、元首相だったということを考え併せると、今回の政治テロの真の目的が見えてきます。安倍晋三という大物政治家を「悪人」だと犯人に思い込ませたのは何か。それこそがテロを誘発させた「真犯人」ではあるまいか。

 

 

 我が国のマスコミは例外なく、テロの被害者となった安倍元総理の死を悼み、これまでのバッシング報道から手の平を返すが如く、元総理の偉大な功績を称える姿勢が目立ちます。安倍元総理が「美しい国」を作ると演説した際には、具体性に欠けるだの何だのと難癖をつけ、経済政策では3本の矢は当たらずと言わんばかりでした。新型コロナ対策についても、アベノマスクなどと揶揄するばかり。そして、例の「森友学園」問題については、検察審査会の判断があったにもかかわらずしつこく蒸し返し、安倍氏を攻撃し続けたのです。

 

 

 テレビショッピングを見ていると、初めは関心がなかったのに、そのうちに何となく商品を買ってしまったという体験をされた方も多いかと思います。テレビのCMなどではそうした効果が実証されています。何度も繰り返し同じ宣伝文句を見聞きするうちに、知らず知らずに”刷り込まれ”ていくのです。

 

 

 森友問題やアベノマスクやらの文言が新聞や週刊誌、ネットなどに繰り返されるたびに、読み手には自然と”刷り込まれ”てしまう。そして、「安倍元総理は悪者だ」という固定観念がいつしか形成されるのです。一度、刷り込まれた固定観念を払拭するのは容易ではありません。世論が「安倍バッシング」に傾いていれば尚更です。

 

 

 時を経るに従い安倍氏に対する憎しみがよりいっそう強固なものとなり、やがて殺意へと変わっていく。一国の総理大臣の任にあった人物を誤った思い込みによる「殺意」から、ついには殺害するという蛮行に走らせたもの全てを断罪すべきです。民主主義に対する攻撃だと政治家やマスコミは繰り返し主張しますが、問題はそんな綺麗ごとではないはず。

 

 

 この際、申し上げましょう。罪を憎んで人を憎まずという諺がありますが、筆者は犯人を憎みます。罪を憎むのと同様に。そして銃弾テロを誘発させた背景にあるすべての物事を断じて許すことは出来ません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生の「梅雨入り」について考える

 気象庁の発表によれば、関東地方では先月、ひと月の降雨量の記録を更新したそうです。連日の雨降りにはもううんざり。まだ入梅前だというのに、お天道様が暦を読み違えたのでしょうか。

 雨降り自体は悪いわけではなく、日本のように四季に恵まれた土地では、季節ごとの約束事があり、その一つに入梅があります。雨降りは運動会や旅行などのアウトドアで行うイベントにはマイナスですが、農作物や山や野原に生息する動植物にとってはまさしく恵みの雨に他なりません。

 

 

雨降りと月曜日

 

 

 リモートワークが許される方々にとっては、外の天気などあまりご関心がないのかもしれませんが、日々朝に夕に混雑する通勤電車に揺られなければならない”普通の”勤め人には、雨降りは̠マイナスでしかありません。さらに週初めの月曜日に雨の予報が出ているのを知った時には、ああ会社なんか(学校なんか)行きたくない!とそのまま部屋に閉じ懲りたくもなります。もちろん、引きこもりは深刻な状況ですから、雨が降ったくらいで会社(学校)を休むのは極力避けたいものです。

 

 

 うつ症状の方は「雨降りの月曜日」というのが苦手なはず。筆者もそのひとりでしたから、日曜日の夕方のニュースを見て、翌日の月曜が雨降りの予報だったりすると、あたかも自分が奈落の底に落ちていくような絶望感に苛まれました。そんな落ち込みがちな気分を何とかなだめようとして、苦心惨憺した結果、自分なりの「現実逃避」の方法を編み出しました。

 

 

 もちろんすべての方に効果があるとは思えませんが、ここでその「逃避行」の極意を披露いたしましょう。

 

 その1。日曜日にはカレンダーを決して見ないこと。その日は土曜日だと自分に言い聞かせて、その通りに明日のことなど一切考えずに行動します。

 

 その2。曜日も日時も忘れるほどに何かに没頭すること。机や押し入れの中をすっかりきれいに整理整頓するのもいいでしょう。あるいは、趣味に浸り切るのもいいでしょう。筆者は音楽鑑賞が何よりの楽しみですから、朝から晩まで家人から五月蠅いと文句を言われようが一切聞き入れずに、CDラックやレコード棚から気持ちの赴くままに聴きたい音楽を一日中、鳴らし続けるのです。

 

 これは大いに効果がありました。聴き疲れる頃には、明日のことなど考える間もなく時間が過ぎていきます。要するに流されるままに時を過ごせば良いのです。

 

 

 『雨の日と月曜日は』という曲があります。カーペンターズが歌ってヒットした曲ですが、歌詞の内容はこんな具合です。

 

「独り言なんて年をとったのかも

 何もかも嫌になってやめちゃおうかな

 そんな思いでそこらをぶらついても

 しかめっ面しかできないなんて

 雨降りと月曜日はいつも落ち込んじゃうのさ」

 

 

人生の「梅雨入り」に

 

 

 医学の進歩のお陰でヒトは長生きするようになりました。

 中でも日本人男女の平均寿命は84歳という、世界有数の”超高齢者”国家です。その昔は人生50年時代もありましたが、今では「人生100年」と言われています。幸か不幸か。その答えを導き出すことは恐らく不可能と思われます。まさしく、神のみぞ知る、なのです。

 

 

 人生50年の頃からその倍の長寿国となった私たち日本人。長い人生の中には、文字通り山あり谷ありで、苦しい時、死にたくなるほど辛い時もあれば、万事上首尾で順風満帆の方もいらっしゃいます。人生いろいろです。

 

 

 たとえば「梅雨入り」を人生に置き換えるとすれば、一体、どんな人生模様でしょうか。山と谷ではどちらかなのか。幸か不幸か。禍福は糾える縄の如し、とはうまく言ったものです。プラスとマイナスのちょうど中間あたりなのかもしれません。

 入梅の後には真夏の太陽が照り付ける”灼熱”の夏が到来します。子供たちは喜び勇んでお友達と表に駆け出す季節。青春の季節でもあります。

 

 

 しかし一方では、日照不足の草花が萎れるように心がすっかり縮れてしまい、何を見ても何をやっても悲しみに暮れるしかない絶望感に襲われることもあります。ちょうどうつ症状に苦しむ人が雨の日と月曜日を恐れるように。

 人生の「梅雨入り」は前述したように、幸と不幸の中間点にあるわけですから、そのどちらかに傾いてもおかしくないのです。

 

 

 篠突く雨に傘を持たずに歩み出せば、雨は容赦なくシャツを濡らし、布地が体に張り付いて、濡れそぼちます。誰かが傘を差しだしてくれたのならば、こんな惨めな思いをせずに済んだのに。『となりのトトロ』の1シーンのように、あなたの傘で救われる人がいるのです。世界中の困っている人々にあなたの”傘”を差しだせば、救われる命もあるのです。あと少しの勇気さえあれば…。

 

 

 70年代という激動の時代に、三島由紀夫自衛隊の市ヶ谷駐屯地の一室を占拠し、バルコニーに立ち、怒号飛び交う群衆を前にして、命を張って「決起せよ」と檄を飛ばしました。今から50年ほどまえの出来事ですが、あの三島の言動の是非よりも、人生の「梅雨入り」について語ろうではありませんか。

 幼子が車道を一人歩きするように、実に危うい季節。もしもあなたがそんな覚束ない姿を目撃したらどうしますか。車道いっぱいに走り抜ける車から子供を庇おうとして無意識に手を差し伸べるに違いありません。

 

 

 「梅雨」は人生において不確かな季節でもあります。奈落の底に落ちないとも限りません。そうならないように、歩みも危うい幼子を庇う手のように、篠突く雨に傘を差しだしましょう。そうすれば、誰も傷つかず、濡れそぼつことなしに笑顔が溢れることでしょう。雨が上がれば、きっとあの懐かしい太陽を顔いっぱいに浴びて心の底から莞爾と笑い合えるはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「戦争」に勝者なしとプーチンは心得よ!

 ロシア軍のウクライナ侵攻から二ヵ月が経ちました。当初よりプーチン大統領ウクライナでの軍事行動は「侵攻」ではなく「解放」である旨、繰り返し国民に納得させようとし、その為に「偽情報」を公表することで国民の理解を得ようとしました。

 しかし日本を含め欧米諸国はロシアの主張は全く容認できないどころか、”フェイクニュース”であると断じました。戦禍のウクライナ国内で実際に起きている現状については、ゼレンスキー大統領の主張に明らかに歩があるようです。限られた映像や少ない情報の中で、唯一信頼できるのはウクライナ側からの「情報」であると西側諸国は判断したのです。

 

 

「軍事力」対「情報戦」

 

 

 ミサイル攻撃を受けて破壊しつくされたウクライナの都市の映像は、紛うことなき「真実」を物語っています。情報化社会という言葉はもはや使い古された感がありますが、今回のウクライナ戦争において、モノを言うのは「情報」に他なりません。侵略者・ロシアとウクライナとの間では、ミサイルによる攻撃だけではなく、「情報戦」を有利に進めることが極めて重要なのです。

 

 

 ゼレンスキー大統領は「情報戦」において長けているようです。国連での演説を始め、日本の国会でもオンライン演説を行い、西側諸国へのアピールを成功させました。対するロシアは、プーチン氏が公営放送を通じて自国民に向けてウクライナへの軍事行動の正当性を強調してはいますが、インターネットで世界中の情報がどこにいても入手できる「高度情報化社会」においては、いくら”大本営発表”を繰り返したところで、いつまでも国民を欺き続けることなど不可能でしょう。

 

 

 ロシアは米国や中国と並ぶ軍事大国であると認識されていました。しかし今回のウクライナ戦争では侵攻当初よりウクライナ軍の反撃を受け、戦車や軍艦「モスクワ」の沈没など大きな打撃を受けました。そこで判明したのは、ロシアの軍事力は確かに物量的には強力であっても、案外脆弱であったということです。

 プーチン氏はウクライナの軍事力など大したことはないと高をくくっていたようです。短期間のうちに首都キーウの陥落を達成できるはずと信じて疑わなかったのではないでしょうか。ところが、実際には侵攻の初期段階から思わぬ苦戦を強いられる羽目になり、停戦交渉も暗礁に乗り上げて、まったく攻めあぐねているというのが現状です。

 

 

 柔道8段のプーチン氏ですが、マッチョな男ぶりを殊更強調したがるほどの”肉体派”だけに、ウクライナなどすぐに打ち取って見せると言ったか言わなかったかは知りませんが、この戦争には絶対に勝利すると固く信じていたに違いありません。もちろん、戦争を仕掛けた張本人なのですから、最初から「勝ち戦」以外には考えもしなかったのでしょう。

 ところが、「情報化社会」においての「戦術」に関しては、ゼレンスキー大統領に大きくリードされてしまいました。ポピュリズムを背景に元コメディアンから国家元首にまで上り詰めたゼレンスキー氏には、ウクライナ国内のみならず全世界のマスコミをも味方に付けるだけの”手腕”が備わっていたのです。これはマッチョでコワモテが売りのプーチン氏にとって大きな誤算でした。

 

 

アメンボほどの「命」

 

 

 圧倒的な軍事力を誇るロシアのプーチン氏が勝利するのか。それとも軍事力では比べるべくもないウクライナのゼレンスキー氏が勝つのか。侵攻でも侵略でも戦争でも言葉の意味するところは同じです。どちらが戦勝国となるのか、全世界が固唾の飲んで注視しています。

 しかしそもそも「戦争」の真の勝者など存在するのでしょうか。戦争という人類にとって最も愚かな行為の結果がもたらすのは、何たる酷たらしい惨状でしょうか。

 

 

 人類の叡智が築き上げた文明。科学の進歩。我々が何世代に渡り営々と進歩発展させてきた文明が国家権力の都合によりいとも簡単に残骸と化してしまう。それが戦争です。人命は地球より重いと述べた日本の総理大臣の言葉は確かにその通り。事実、地球どころか紙切れより軽いのかもしれません。現代社会に生きる一人一人の命はいかほどの重さなのでしょう。きっと想像を遥かに超えるほど軽いに相違ありません。

 

 

 童謡『手のひらを太陽に』にこんな一節があります。

 

「ミミズだって オケラだって アメンボだって

 みんな みんな生きているんだ

 友だちなんだ」

 

 ぼくらはみんな生きている、というフレーズで始まるこの曲の言わんとしているところは、命あるものは皆、尊い存在なのだということ。しかし、その命の尊さが今現在、一人の独裁者によって踏みにじられようとしているのです。ミミズやアメンボほどに。いとも簡単に。

 

 

 ウクライナ戦争は長期戦になるとの見方がありますが、いずれは決着の時が訪れます。その時の勝者がプーチン率いるロシアなのか、ウクライナと西洋諸国なのか、予断を許さない状況です。ただ一つだけ言えることは、「戦争」には決して勝者などいないということ。戦争により多数の無辜の民が傷つき命を落とし、文明が破壊される。戦勝国となっても、国際社会から糾弾され国交は断絶し経済危機に直面するということ。

 

 

 地球上に生命が誕生し我々の祖先たる古代生物たちは進化し続けることで生き残り、やがて人類まで進化を遂げました。進化の過程にはたった一つの法則があります。個々の命をいかに次世代に引き継いでいくかという法則です。

 命こそが唯一無二の存在であるということ。その「命」を徒に無駄遣いする「戦争」には、勝者などあり得ないと心得よ、プーチン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゲルギエフ指揮『悲愴』を聴いて思ったこと

 ロシア軍のウクライナ侵攻に歯止めが掛からない。世界最大級の原子力発電所をすでに手中に収め、いよいよ首都キエフ制圧に向けた”最終”段階に入った模様。経済制裁を口にするだけで一向に軍事行動をとらないバイデン米大統領の弱腰を見透かし、今度は生物・科学兵器も辞さない勢いです。まさに狂気の沙汰という他ありません。

 

 

「最終兵器」

 

 

 ロシアの軍事侵攻の兆候を見逃さず、米国が軍事力を行使するとの強いメッセージをプーチン大統領に向けて発信していたら、もしかしたらウクライナが戦禍に巻き込まれる事態は避けられたかもしれません。しかし時すでに遅し、ロシアの背後に控える中国も含め社会主義諸国対アメリカを代表する民主主義国家との全面戦争が今まさに勃発しようとしています。

 

 

 第三次世界大戦の火蓋が切られ、いよいよ「最終兵器」が炸裂して世界が終わる。そんな悪夢が現実味を帯びてきました。もう地球上のどこにも安全な場所はありません。「世界の終わり」を前にして、私たちはどうすれば良いのか。マッドサイエンティストならぬマッドプレジデントたるプーチン氏を暗殺すれば地球は救われるのか。どうやらそれほど単純ではなさそうです。”黒幕”の中国がプーチン氏亡き後に世界の覇者となるからです。

 

 

 中華人民共和国。読んで字の如く、中国こそが世界の中心でありその人民が世界を支配するのです。尖閣諸島を巡り中国が公然と日本の領海侵犯を繰り返していますが、そんなものでは済むはずがありません。尖閣どころか沖縄もそして日本列島のすべてが中国領に取って代わる日も近い。何しろ、世界の覇者です。何でもやりたい放題に我が物顔で日本人を、世界中を土足で踏みにじることでしょう。

 

 

 そんな”悪夢”が現実のものとならぬように願わずにはいられません。今、私たちが最も欲しているのは他でもありません、世界平和なのです。平和だって…?、何を今さらと言うことなかれ。

 今から50年前のベトナム戦争時に、ジョン・レノンのあの名曲『ハッピー・クリスマス』のサビで何度も次のコーラスが繰り返されます。

 

「戦争は終わる

 そう願うならば」

 

 世界平和は50年前の流行語などでは決してありません。戦禍のウクライナで人々は心の奥底から「戦争は終わる。あなたがそれを願うならば」と声の限り叫んでいるではありませんか。彼らの願いは必ずや叶えられなくてはなりません。ウラジーミル・プーチンよ。あなたには世界中の民の声が聞こえないのか?その声の主は他ならぬロシアの民のものでもあることを理解しなさい。

 

 

ゲルギエフ氏の沈黙

 

 

 ウクライナから届く悲惨な映像にいたたまれない気持ちになって、テレビから離れオーディオセットの前に行き、CDラックから一枚を取り出しました。チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」、ヴァレリーゲルギエフ指揮、キーロフ劇場管弦楽団(現・マリインスキー劇場)。

 もう何度も聴いている愛聴盤ですが、この日は若き日のゲルギエフの怒涛のエネルギーよりも、こんなにも悲しみに満ち溢れた演奏だったのかという新たな感興を催しました。

 

 

 ご存知の方も多いと思いますが、ゲルギエフ氏は若くして同劇場の芸術監督に就任しその後に総責任者となって、ソ連の崩壊とともに経営難に陥った劇場を世界最高レベルまでステップアップさせました。

 世界的な名門オーケストラの首席指揮者を歴任し、世界一忙しい指揮者と言われたゲルギエフ氏ですが、今回のプーチン大統領の暴挙に対して異を唱えない姿勢に非難の声が上がりました。ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を解任され、各国の楽団から首を言い渡され、自らの劇団の海外公演もすべて中止となりました。

 

 

 ゲルギエフ氏はプーチン大統領と親しく、ウクライナ侵攻に肯定的な姿勢とみなされたのは当然かもしれません。ただし、ご本人はこの件について一言も見解していません。ただ沈黙を守っているのです。

 言うまでもなくゲルギエフ氏は政治家でもコメンテーターでもありません。譜面に込められた作曲家の思いや意図を掘り起こして、高度な芸術性を帯びた音楽を創造することの出来る、稀有なアーティストなのです。むろん芸術家であっても政治的な発言を積極的にする方もいらっしゃいます。ただ、ゲルギエフ氏は沈黙しているのです。その姿勢がけしからぬと言われれば、確かにそうかもしれません。

 

 

 マリインスキー劇場の最高責任者として同劇団を維持、運営していくためには、ロシアのような社会主義国にあっては時の権力者と上手に付き合わなければならなかったことでしょう。国家のトップと良好な関係を築くことなく、劇場を運営していくことなど極めて困難なのは容易に想像できます。それ故、頑なに口を閉ざし続けるより他ないのではないでしょうか。

 

 

 ロシアに関係するものはすべて悪者というのではありません。ロシア人全員が悪人であるはずもない。プーチン大統領とその国家体制が悪いのです。事実、ロシア国内ではウクライナ情勢についての情報を厳しく制限して、侵略の正当性を強調するのに躍起になっています。そのことはむしろロシア人の大半がこの侵略に対して否定的な見解を持つであろうことを恐れているからだと思われます。

 

 

 ウクライナに侵攻したロシアは確かに悪いけれども、チャイコフスキーゲルギエフ氏も悪人でもないのです。ムソルグスキーラフマニノフリムスキー=コルサコフも、ストラヴィンスキープロコフィエフショスタコーヴィッチも。

 

 

 心静かにゲルギエフ指揮の『悲愴』を鑑賞していると、自然と涙が溢れだしました。何と美しく、哀しい演奏でしょうか。プーチン氏こそこの曲の持つ芸術性に耳を傾けるべきです。今すぐ”友人”のこの演奏を聴きなさい。

 

戦禍のウクライナに「春一番」が吹くのはいつ?

 春一番が首都圏に吹いた日、ウクライナではロシア軍が民間施設を攻撃し、多数の死傷者が出ました。いかに平和ボケした日本人でもロシアの侵略によるウクライナの惨状を目の当たりにして、たった今、現に戦争が起きていると言う事実に慄然としたに違いありません。

 

 

それでも爆撃は止まず

 

 

 プーチン大統領の暴挙に世界中が怒りの声を上げています。すべての交戦国に対して中立であるはずの永世中立国たるスイスでさえも、EUの対露制裁に歩調を合わせる決定を下しました。第二次世界大戦時も中立を貫いた同国が、これまでの国是を曲げてロシアの暴挙を許さない姿勢を示したのです。

 

 

 アメリカのバイデン大統領はもちろんのこと、岸田総理も最大限の強い言葉でロシアを非難し、他の西側諸国と歩調を合わせて対ロシアへの制裁措置を講じる旨、発言しました。強い制裁措置を取ると言いますが、その中身はプーチン氏をはじめとするロシア関連の資産の凍結や金融市場からの締め出しが主な内容です。

 

 

 大国ロシアとはいえこれらの経済制裁は同国の国力を弱体化させる効果はある程度見込めるでしょう。しかし、経済制裁だけでは不十分だと言わざるを得ません。戦禍のウクライナでは世界最大級の原発が攻撃され、市街地の住居を爆撃するなど、ロシア軍の攻撃はますますエスカレートしています。今こそただちに戦闘を中止させるための制裁が必要です。生温い経済制裁などではロシア軍の攻撃は止みません。

 

 

 サッカー元日本代表の本田圭佑選手が先月27日、自らのツイッターで次のような意見を述べています。

「もし本当に助けたいなら武器を売ったり送ったりしんくてもいいから、軍隊を派遣して守ってあげてください」

 この意見には非難の声が少なくなかったようですが、戦争を回避するための本質的な議論がなされていない点を指摘して、

「今後のことを考えると日本も他人事ではない」と警鐘を鳴らしました。

 

 

 本田選手に指摘されるまでもなく、戦争回避への国際的な議論が不十分だったことは明白であり、ロシアのウクライナ侵略は不可避な状況でした。ウクライナには史上最悪の原発事故を起こしたチェルノブイリ原発やザポリーニ原発があり、今回、世界最大の原発にも砲弾が撃ち込まれたのです。こうしたロシア軍の容赦ない攻撃に、プーチン大統領は正気を失っているのではないかと囁かれ出しました。

 

 

「世界の終わり」

 

 

 第三次世界大戦の勃発か。原発破壊によってヨーロッパのみならず地球全体が放射能に汚染されてしまうのか。いずれであっても、それはこの世の終わりを意味します。

 西側諸国とロシア、中国の社会主義国家の対立激化で、いつ世界大戦が勃発してもおかしくありません。「世界の終わり」は目前に迫っているのです。

 

 

 かつて米ソが核兵器の開発競争に狂奔していた時代に、このままでは核弾頭が発射される恐れがあると国際社会が危惧し、その後、国際協定を結び軍縮へ舵を切ったかにみえました。ところがどうでしょう。いざロシアのような軍事大国が本気で戦争を始める時には、過去の”遺物”だった核弾頭の埃を払い、核兵器の使用も辞さずとなってしまうのです。

 

 

 一度、核を保有した国は二度とそれを手放すことはありません。いざという時に備えるという名目があるからです。そのことが今回のロシアのウクライナ侵攻で証明されました。プーチン大統領の口から、我が国は世界有数の核保有国であるという脅し文句が出たのです。

 

 

 さて、今現在「終末時計」の”残り時間”はどれくらいなのでしょうか。今年1月20日時点では、残り100秒でしたが、ロシアが戦争を始める以前のデータですから、今ではその半分、いやもっと少ないはず。残り10秒を切っていよいよカウントダウンが始まったに違いありません。

 

 

 英国のロックバンド、ザ・キンクスのヒットナンバーに『エイプマン』という曲があります。歌詞の一部を拙訳ですがご紹介します。

 

「この世界はもう安全じゃない

 核戦争で死ぬくらいなら

 どこか遠くの島に行って、猿人のようになりたい

 僕はエイプマン。猿人です。キングコングの男です」

 

 

 キンクスストーンズとほぼ同時期に結成された英国のバンドで、ストーンズほどの大成功は収めなかったものの、多くの佳曲を生み出しました。皮肉たっぷりのひねりの効いた歌詞がなかなかのセンスです。筆者を含め今でもコアなファンがいます。

 同曲が発表されたのは1970年ですから、50年以上前ですが、地球上のどの生物よりも進化した人類が文明や都市を築いたけれども、核戦争の脅威の中で生きるくらいなら、エイプマンになった方がましだというは、今だからこそ大いに頷けます。

 

 

ウクライナに春が訪れるまで

 

 

 「終末時計」がいよいよ最後の時を告げる前に、キンクスの歌うように「エイプマン」になる道を選びましょうか。いや、核兵器が火を噴いたが最後、どこかの無人島でももはや生き残れないでしょう。もう地球上のどこにも安全な場所は存在し得ないのです。

 

 

 キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』のラストシーンが目に浮かびます。核爆弾の炸裂でもくもくとキノコ雲が上空に広がっていく、あの場面です。地球が滅亡する場面で流れるヴェラ・リンの歌う甘いメロディ。『We"ll Meet Again』。

 

「また逢おうね

 いつになるかどこで会えるか

 わからないけれども

 青空の下できっと

(中略)

 微笑みを忘れないで

 いつもあなたがやっていたように

 青空が雨雲を追い払うまで」

 

 戦禍のウクライナに「春一番」はいつになったら吹くのでしょうか。

その日が来るまでは微笑みを忘れずに…。また逢えますように。