明日を元気に生きるための「心の処方箋」

頑張り過ぎて疲れたあなた、心を痛めたあなたへ。言葉の癒しを実感して下さい

輝きは絶対に色褪せたりしない

前回までの話 図書館トレーニングに飽きた私を見かねて、妻がお台場に連れ出してくれた。ある雑貨店のBGMで「オータム・イン・ニューヨーク」を耳にした私は、天上から降りてきた音楽に全身が癒される感動に包まれた。ただの一曲が心の闇を照らし出す気分の切り替えるスイッチだったのだ。

 

 あの曲を耳にして以来、私は少しずつ入り組みこんがらがった心がほぐれ出すのを感じました。鬱病になって以来、何一つやる気がでなかった心に、一条の光が射しこんできたのです。でも心のスイッチが切り替わったことで、もうひとつの変化が生じました。もうとっくの昔に忘れ去っていたある記憶が蘇ったのです。

 出版社に入社して初めて配属された雑誌編集部で私は日々、目前に迫りくる締め切りに追われながら、あちこち取材に奔走していました。ある特集の企画で高級老人ホームを取材するよう上司から指示され、私は都下にある有料老人ホームに取材に行ったのです。

 アーチ状にバラの花が植えられた門をくぐり、施設の正門まで続く道を歩いていくとあちこちに色とりどりの花が咲き乱れ、とても美しい風景でした。建物の中に入るとすぐに受付の方が私に近寄ってきました。私ははじめ受付の職員と思っていたのですが、よく見ると年齢は五十代近くの品の良い女性で、名刺を交換したところその方がこの老人ホームの院長でした。

 簡単に自己紹介と今回の取材の意図をあらためて説明したあと、私は院長と一緒に施設内を見て回ることになりました。1階にあるひろびろとしたロビーにはゆったりとしたソファーがいくつもあり、いかにもセレブらしい高齢の女性入居者が静かに大型画面のテレビに見入っていました。私の視線に気づいた院長は、さっそく説明を始めました。「あの方はもと大型マンションを経営する企業のオーナー社長だったんですよ。いつもあの席に座って、他の入居者の方が彼女のそばに来ると何やらこまごまとした指示を出して、じゃあ頼んだわね、といってまたゆったりと背もたれに身を預けてテレビを見るのです。きっとご自分が社長だった頃に戻って他の入居者を会社の秘書だと考えているのでしょうね」。

 エレベーターで上階へ上がりビリヤードがおいてある遊戯室やゆったりとした入居者の個室を見て回りながら、院長はこんな話をし始めたのです。「ここの入居者の方々はほとんどがボケ、つまり認知症です。いつもメモ帳を片手に誰彼構わず話しかけては、あれこれ質問をして、その相手が答えることをメモに書き写している方がいます。質問といっても認知症の方ですから意味の分からないようなことを話しているだけなのですけど、メモを取る姿はまるで新聞記者のようです。実際、その男性は元大手新聞社の政治部にいた方で、今も現役の新聞記者のように毎日取材をして回っているのです」

「ボケることは実は幸せなことなんですよ。だってボケたら日ごろの悩みも苦しみもすべて忘れてしまうんですもの。そして元社長や元新聞記者のように振る舞うのです。それはその方の人生の中で最も輝いていた頃のご自身に戻れるからなんでしょうね」

「元お花屋さんの男性は亡くなる五日ほど前になって、ふだんはおとなしく庭のお花の手入れをなさったりしていたのに、ある時突然にせっかく花瓶に生けたバラの花をハサミで全部切り取り、それを口の中にいれて飲み込んでしまったのです。スタッフがあわてて処置しようとすると男性は首を横に振って「いや、これでいいんだよ。あんまりきれいに咲いたバラだからお腹の中に入れれば体中がきれいになるんじゃないかと思ったんだ」

 高級老人ホームの施設が本当に高額な入居費に見合うようなところなのかを取材するのが目的でしたが、一番印象に残ったことは院長が語った入居者の上記のエピソードでした。認知症に掛かったらもうお終いとか、否定的なとらえ方が普通ですが、あの時院長が話してくれたことは、それとはまったく逆の考え方です。ボケは苦しみを忘れさせてくれ、そしてその人が人生で最も輝いていた頃の自分に戻れるのだという言葉には考えさせられました。

 サラリーマンには必ず定年退職する日がやってきます。その後セカンドライフ謳歌できる方がいる一方で、経済面や健康面などで不安を感じる方も少なからずいらっしゃります。中でもボケることを最も恐れる方も多いはずです。でも、もうとうに忘れ去っていた過去の取材経験の中から、あの高級老人ホームの院長が私に語ってくれた話は中高年となった今だからこそ切実に考えさせられる話です。三十代、四十代、五十代と懸命に会社のために身も心も尽くしてきたのに、役職停年や子会社への出向などの処遇が待ち受けるのです。実に理不尽かつ非人情な話ではありませんか。憤懣やるかたない思いに駆られます。

 でも認知症になるならないは別にして、あなたにはかつてはバリバリと働きリーダーシップを存分に発揮していた時の輝きがあります。その輝きは決して色褪せることはないのです。