明日を元気に生きるための「心の処方箋」

頑張り過ぎて疲れたあなた、心を痛めたあなたへ。言葉の癒しを実感して下さい

72年ぶりに届いた「三島由紀夫」の『恋文』

 これは文学史上の「重大事件」に違いありません。1949年10月30日付けの朝日新聞・大阪版及び西部版に掲載された、三島由紀夫の掌篇小説『恋文』が実に72年ぶりに私たちのもとに届けられたのです。

 太宰治など日本の近現代文学研究で知られる、斎藤理生・大阪大学文学部准教授により見出された今回の『恋文』は、これまでに出版されたいかなる短編集にも、また全集にも未収録の作品とのこと。

 

 

24歳の三島作品

 

 

 三島由紀夫といえば、1970年11月25日、当時の自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーに軍服姿で立ち、若者に向けて決起せよとの檄を飛ばした後に割腹自殺を図ったことは周知の通りです。45歳で亡くなりましたが、もしも今も健在ならば、今年96歳になります。作家としてこれから円熟期に差し掛かる、大切な時期にこの世を去ったことは、実に残念なことです。

 

 

 今回の作品は大蔵省を辞めてプロの作家となって間もない頃に書かれました。24歳の新進気鋭の天才作家の手による掌篇小説『恋文』。三島ファンの端くれでもある筆者としては、矢も楯もたまらず掲載誌を求めて書店に走ったことは言うまでもありません。

 

 

 さて、若かりし頃の三島の『恋文』はいかなる作品なのか。ネタバレを承知で、ここで少々ご紹介しましょう。

 

 

 今回の作品が掲載されたのは、月刊文芸誌「新潮」(5月号)です。「新発掘 三島由紀夫 全集未収録掌篇 恋文」という大きな文字がタイトルで、履歴書写真風の若き三島の写真が添えられています。頁をめくると右頁には、恋文 三島由紀夫の文字に続いて、37字×15行の本文。左頁は、掲載された当時の新聞のコピー。あとは斎藤准教授の解説文があります。

 

 

 解説文はさておき、わずか400字余の小品をじっくり味わいました。とはいえ、どんなにゆっくり読んでも読み終えるのに3分と掛かりません。新発見だけにもっとたくさん読みたかったなと思いましたが、なにせ掌編ですから仕方がありません。しかし、天才・三島の作品です。これがあっさりと読み終えるばかりの内容であるはずもありません。3分で読了なんて、とんでもない。この作品を読み解くには、少なくともその数倍の時間を掛けるべきです。

 

 

空虚な眼差し

 

 

 戦後間もない頃、比較的裕福な世帯と思われる家庭の主人が、「支店長」として登場します。何かの会食の席での出来事でしょうか、ふとハンカチを求めて探ったポケットの中に封筒があることに気付きます。

 「堅人一方の藝なしザルの支店長」がこの封書を座興に披露します。それは女性からのラブレターでした。座は大いに盛り上がり、艶福家扱いされてご機嫌となった彼は、自宅に戻るとすぐに”最愛”の妻に手紙を見せます。

 ”冷艶”な妻は一目見て、それが十三歳の娘の手によるものだと見破ります。父親から悪戯の理由を問い質された娘は、「ぼんやりと宙を見ながら」答えます。「お父様が可哀そうだから」と。本文にはそうとは書かれていませんが、夫人が浮気をしていることをこの娘は知っていて、そのことに少しも気づかない父に憐憫の情を覚えたのです。

 

 

 解説者は、この経済的に恵まれてはいるものの隠蔽された不和の夫婦関係と当時の占領下の日本社会を二重写しにしていると指摘しています。偽の恋文に書かれていた「PX前で待っています」というのも、進駐軍専用の売店(PX)を日本人は遠くで見るより他なかった無力感と母親の浮気を知りながら何も出来ない娘の空虚な眼差しとが呼応しているというのです。

 

 

 時代背景とこの作品に描かれる寸劇とを結びつける視点は、さすがは近現代の日本文学研究を専門とする学者らしい分析だと感心しました。斎藤氏はこの小品が後に『鍵のかかる部屋』に引き継がれると解説していますが、筆者にはむしろ『美徳のよろめき』の方に近いのではないかと思われるのです。

 

 

 戦後の日本には、日本人の様々な価値観、たとえば道徳観や倫理観などに大きな変革がもたらされました。そうした混乱した精神の中にあって、『美徳のよろめき』が描き出す人妻の絶え間ない姦通は一種のモデルケースとして、三島の卓越した筆により倫理観をも凌駕する特別な愛情表現に昇華していきます。『恋文』から8年の時を経て書かれたのが『美徳』です。24歳の三島の作品と31歳の小説では、当然、内容やテーマ性に違いがあります。

 

 

 掌編という極小品に様々なテーマを詰め込むのはさすがに無理があることでしょう。戦後に日本人が感じていた空虚さと家庭の不和を象徴させるので精一杯だったのでしょう。より深淵なる男女の世界、日本人の精神世界を投影させるには、三島をしてももう少し年齢を重ねることが必要だったのかもしれません。

 だからこそ解説にあるように、三島自身が「長編小説と等しい質量をもたない掌篇は無意味である」と今回の『恋文』からわずか二か月後に著した評論『極く短い小説の効用』に記したのです。

 

 さて、皆様は今回発見された『恋文』をどのようにお読みになりますか。