明日を元気に生きるための「心の処方箋」

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「竹内結子」「三浦春馬」の自死に思うこと

 日曜日の朝、突然の訃報が全国に駆け巡りました。女優の竹内結子さんが渋谷区の自宅マンションでぐったりしているところをご主人が発見し、未明に救急搬送先の病院で亡くなられたのです。遺書などは残されておらず、自殺とみられます。

 竹内さんの所属事務所はホームページ上で、「あまりに突然の出来事で所属タレント、社員は驚きと悲しみで茫然としております」とコメントを発表しました。

 

 

 ご承知のように竹内さんは歌舞伎俳優の中村獅童氏との間に一児をもうけた後に、夫の不倫が原因で離婚、その後、同じ事務所の年下の中村大樹氏と再婚して、今年1月に次男を出産したばかりでした。

 

 

 生まれて間もない幼子を残して自殺するとは、一体、彼女の身に何が起こったのでしょうか。

 

 

 詳細は不明ながら、遺書も残されていないことから、育児ノイローゼだったのではないかとの憶測を呼びましたが、竹内さんご自身の意思により命を絶ったという事実は動かしようがありません。

 

 

自死

 

 

 自殺。何という後味の悪い言葉でしょうか。殺すという言葉には悪意が感じられます。自らを殺すではなく、自らの意思で死ぬという意味で「自死」という言葉で表現する方が、亡くなられた方を悼む気持ちが込められ、適当ではないでしょうか。

 

 

 命ある者は必ず死すべき運命を負っています。「死」はすべての人類が共有する宿命なのです。逆に言えば、人は死ぬ日まで生き続けるのであり、死は生の終着点でもあります。

 

 

 何一つ不自由なく、大過なく順風満帆の人生を歩む方もいる一方で、身体的なハンディキャップを背負いつつ、懸命に生きようとする方も大勢います。経済的に恵まれず逆境の中で懸命に生きようとする方もいれば、恵まれた環境にいながら、病魔に襲われる方もいます。

 

 

 100人いれば100通りの人生があるように、生あるうちは死に物狂いで生きるものなのです。それ故、生きづらさを感じて、日々が苦痛に満ちていき、これ以上生きたくないと考える人が、「自死」を選ぶのです。竹内結子さんが心のうちにいかほどの”生きづらさ”を抱えていらしたのかは、もはや永遠の謎です。

 たとえ一番身近な関係のご主人であっても、恐らく理解不能でしょう。そして、残されたご遺族は、なぜ彼女が「自死」という決断を下したのかという永遠の難問を抱えながら、これからも生き続けなければならないのです。

 

 

 人気俳優の三浦春馬さんも今年7月に「自死」されました。彼の仕事仲間や友人知人、事務所関係者は皆、突然の死に呆然自失となりました。三浦さんは売れっ子俳優ですから、仕事面では何も問題はなかったはず。誰ひとりとして彼が「自死」を選ばざるを得なくなった理由を理解できませんでした。ただ、三浦さんも竹内さん同様に、ひとり「自死」という重い決断を下したのです。

 

 

 著名人の「自死」が報じられるたびに、たとえテレビや映画館でしか彼・彼女の姿を知らなくても、悲しみが沸き起こります。もしかしたら、映画やドラマの中で明るく前向きの人物を演じていても、それはあくまでも演技の範囲であり、本心は誰にも明かすことがなかったのではないか。本心では、生きることが辛くて仕方がなく、そんな人生から逃れるためには「自死」しかない、と考えていたのかもしれません。

 

 

 表と裏。誰でも表向きの表情や態度と本心とは表裏一体でありながら、実は正反対の特質を有しているのではないでしょうか。裏の顔=本心は誰にも知られたくないし、本来、誰も理解できないのかもしれません。とするならば、人は常に自己矛盾を抱えながら生きてゆくしかありません。生きづらいとは、まさしく自己矛盾、欺瞞、表面上を必死に取り繕うとする、多大な徒労の積み重ねのなせる業かもしれません。

 

 

 仏教やキリスト教では、決して「自殺」は認められません。敬虔なクリスチャンでなくても、信心深い仏教徒でなくても、自殺をしたらめでたくあの世に迎え入れてもらえず、成仏できずに「地縛霊」となってこの辛い現世に残る羽目になるかもしれない、と考えたことはありませんか。どんなに辛くても、人は「死」が訪れるまで生き続ける他ないのです。

 

 

「生きる」ことの偉大さ

 

 

 生きることは元来、辛いことなのです。辛い「生」を全うすることで、来世に徳を積むという考えは仏教の教えの一つです。辛いのが当たり前の人生ならば、そんなものはさっさと片付けちまおう、と考える方もいてもおかしくはありません。誰も好き好んで辛い思いなどしたくはありません。

 

 

 では「死」を選ぶことは辛くないのかといえば、もしかしたら生き続けることよりも辛い選択なのかもしれません。今日一日、今週、今月、1年間、何とかやり過ごしたとしても、まだ先には同じような「辛い」日々が待ち構えている。それでも、大多数の人々は「生きる」ことを選択し、日々、歯を食いしばって生き続けるのです。

 

 

 そのうちに何か良いことがあるかもしれない。今日よりも明日、明日よりも明後日、来月、来年、10年後・・・。いつかは報われる日が訪れるかもしれない。そう信じて私たちは今日も生き続けているのです。それは並大抵のことではありません、

 

 

 竹内結子さんや三浦春馬さんは自らの意思で「自死」を選びました。宗教の教義がどうあろうとも、そのことは尊重されるべきだと思います。でも、大多数の方々は「自死」ではなく、辛い人生の道を今日も明日も何十年先も生きようと頑張っているのです。何と偉大なことでしょうか。

 

 

 私たちの偉大なる「決断」は大いに賞賛されるべきです。日々、この世で生きる私たちは、まったく大したものです。生きとし生けるものに幸あらんことを。