明日を元気に生きるための「心の処方箋」

頑張り過ぎて疲れたあなた、心を痛めたあなたへ。言葉の癒しを実感して下さい

「喪中はがき」が教えてくれたこと

 古い友人から喪中はがきが届きました。小学校時代のクラスメイトですが、私とはたまたま席が隣同士だっただけで、とくに親しかったわけではありません。二十年以上も前に一度だけ同窓会で再会したきりです。彼女は父親を早く失くして、家族は母親とご本人だけの二人世帯。クラスの中で片親の子は彼女ひとりでした。私自身、彼女のことで印象には残るようなことはなかったのですが、彼女はこんなことを話してくれました。

 

「あの頃、私はたった一人で本当に寂しかったのよ。だって私はひとり親の子で、おまけに何をやるにしてものろまで愚図だったでしょ。あなただけがそんな私にいつも親切に接してくれたの。忘れやしないわよ」

 

 社交辞令もあったのでしょうが、確かに席替えを何度してもいつも私は彼女の隣の席でした。悪友たちからは、グズ子の隣だなんて、お前はついてないなと散々はやし立てられたものです。今思えば、担任の先生が私に彼女の面倒を見るようにわざとそうしたのかもしれません。

 

 

 大人になった彼女はすっかり印象が変わっていました。二十代のうら若き女性ですから、それは当然のことでしょう。小学校時代のあのグズ子と呼ばれていた頃の面影は少しもありませんでした。そのため、話しかけられた時には、すぐには名前を思い出せなかったほどです。

 

 

 私は雑誌編集者として多忙な日々を送っていたこともあり、それ以来、同窓会の案内がきてもいつも欠席でした。ただ毎年、年賀状の遣り取りだけは欠かさずにしていました。そして、彼女の母親が病気で亡くなったことを喪中はがきで知らされたのです。

 

 

 そこには、印刷された定型文の後にひと言、「一人ぼっちになってしまいました」と手書きの一行が添えられていました。お悔やみの言葉をかけてあげたくて、少し迷いましたが、手紙を書きました。するとほどなくして、彼女から少し長めの手紙が送られてきたのです。

 

 

 お手紙、有難うございました。何度も読み返しては、言葉の一つ一つが胸を打ち、泣きました。あなたの優しさはあの頃と少しも変わっていないのですね。小学校の頃、私はグズ子と呼ばれて、誰も相手にしてくれませんでしたが、あなただけはいつも私の隣にいてくれて、助けて下さいました。母にはいつもそのことを話していたんですよ。母もあなたに一度、お目に掛かってお礼したいわと話していました。叶いませんでしたけれど。

 幼い頃に父を失くして以来、母は文字通り女手一つで私を育ててくれました。一人っ子の私を不憫に思ったのでしょうか、年中働きづめで自分のことなど何一つ気にかけないのに、私だけには不自由な思いをさせたくないと命を削ってきたのです。そして無理がたたり、ついには病気になってしまいました。腸閉塞とのことでしたが、担当の医師は私にだけ本当の病名を教えてくれたのです。末期のすい臓がん。あと半年の命と告知された時は、目の前が真っ暗になりました。

 それからは病状は少し良くなったかと思えば、再び悪化するというサイクルを繰り返した後に、ついに今年2月末に亡くなりました。母はまだ70代前半の年齢でしたが、苦労したせいなのか、病気のせいなのかとても老けて見えました。

 母は苦労して私を高校まで出してくれ、卒業後は小さな貿易関係の会社に就職しました。もちろん、一度も結婚などしたことはありません。大人になった私は小学校時代のような「グズ子」とは呼ばれなくなったものの、器量と要領の悪さは相変わらずです。恋愛だってろくにしたことがないんですよ。でも母には本当に申し訳なかったと思っています。もう少しましな女性になれたら、人並みに結婚して子供も出来たかもしれません。花嫁衣裳すら母に見せてあげられなかったことは、悔やんでも悔やみきれません。

 今は本当に一人ぼっちになってしまいました。けれども、あの頃あなたが優しく接してくれたことを母は知っています。そのことが唯一の救いです。

 長々と愚痴を書いてしまい、申し訳ありません。やっぱりまだまだ「グズ子」のままですね。末筆で失礼ですが、

〇〇様の益々のご健康とご活躍をお祈りいたします。どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

 

 

 たった一枚の喪中はがきにも、その方の歩んでこられた人生が刻まれているのです。一行の短い言葉の中から、悲しみや思い出が浮かび上がります。喪中はがきから私は多くのことを学びました。喪中はがきだけではなく、きっと年賀状でも間違いなく、思いが伝わるはずです。昨今、ラインやEメイルなどで済ませる方も多くなりましたが、やはり気持ちを込めて一枚一枚、手書きの年賀状を出そうと心に決めました。